【漫画(家)10年サバイバル考・1】ライトノベルと漫画家


この業界での常識、『漫画家になるよりも漫画家で“い続ける”事のほうが遥かに困難である』。例えデビュー出来たとしても、五年後にまだ漫画家で居られる(商業誌で描き続けている)のは四人に一人と言われる現実、まして十年後に生き残っている確率は言うまでも無い。消費者の嗜好が細分化し、WEBというなんだか最強っぽいメディアが紙媒体を脅かしている現状ではなおさらのことだ。現在なんとか連載を頂いている我が身とて、一寸先は闇の恐怖。そんなことは百も承知で漫画家になったのだから文句は無い。だが、ただマンガを描いているだけでは不安で仕方が無い。漫画家として生き残るために、現在のマンガを取り巻く状況を理解し、戦略を練らなければ、リ●ナビのお世話になってしまう日が来るかもしれない――。

ものものしい前説ですが、要約すれば、一介のマンガ好きのマンガ描きがなんとなく色んなことをマンガに結び付けて考えてみようって話です。


さて。
早速、YUZUMUGEさんの記事『ライトノベル化する児童文学』を拝読して考えたこと。

正直、児童文学の現状がこんなことになっていたとは驚きだ。よもや自分が子供の頃に大好きだったあの本もこんな事態になっているのかと危惧したが、そんなことは無かったようで安心した。ちなみに自分が好きだったのは『大どろぼうホッツェンプロッツ』シリーズ(翻訳もの)である。話も絵も大好きだった作品が健在と知って嬉しい限りだ。

大どろぼうホッツェンプロッツ (新・世界の子どもの本―ドイツの新しい童話 (1))

大どろぼうホッツェンプロッツ (新・世界の子どもの本―ドイツの新しい童話 (1))

YUZUMUGEさんの記事と写真から判断するに、『ライトノベル化』はここ数年出版の新作に限るようで、昔からある旧作の絵まで差し替えるようなことは無いようだ。それにしても、確かに一見して全く見分けがつかない。内容はきちんとした『児童文学』のようだが、こうなってくると『児童文学』と『ライトノベル』の境界はどこにあるのか、それぞれの定義も曖昧になってきそうだ。
そういえば以前、「霊験お初捕物控」の第一巻が「間違えてラノベの棚に置かれてしまう危険がある」と担当様に言われたことがあった。宮部先生の作品の何点かが青い鳥文庫から刊行されているため、ああなるほどと納得したのだが、青い鳥文庫ラノベじゃなくて児童文学だったということに今更気付いた。しかしそれら宮部先生の作品もやはりラノベと見紛うばかりの漫画的で可愛い表紙がついていたので、当時は迂闊にも気付かなかった。最近『かまいたち』も青い鳥文庫から刊行されたようなので、ぜひとも他の方の描くお初が見たいところだが(笑)。


『児童文学のライトノベル化』とは現在のところ『パッケージのみの変化』に留まるようで、つまり『挿絵がマンガ絵(アニメ絵)に変わった』ということらしい。いち漫画家としての立場から言えば、これは仕事の幅が拡がるということであり、大いに歓迎すべきことであろう(実際、著名な某先生も挿絵を描かれているようであるし)。単に仕事が増えるというだけではなく、児童文学の挿絵ならではのメリットもある。人間は子供の頃に好きだったものには大人になってもずっと愛着を感じるものなので、自身の絵の長期的・潜在的なファンを獲得することが可能だ。また、子供からその親へ人気が拡がる確率も高い。勿論、話があってこその挿絵なのだが、自身の絵を一人でも多くの人に知ってもらう機会が増えるのは非常に喜ばしいことだ。

しかし漫画家という立場を離れて見ると、この現状には一抹の不安を覚える。これでは、子供の嗜好や想像力が画一化されてしまうのではないか?と。


眠くなったので続きはまた次回に。