努力は才能


学生時代の友人が言っていた言葉に、『努力は才能だから』というものがある。その友人の意図するところはネガティブな意味で、つまり『努力とは天賦の才能の一つだから、万人に可能なことではない。その才能が無い人間は努力できない』というものだったと思う。だが、自分はこの言葉をポジティブに捉えたい。夢に向かって努力を続けられる人間は、その『夢』の才能を持っているのだと。

夢は大人にこそ必要なものだ。子供の頃に抱く夢は、可能性という面で夢ではなく『目標』に近い。子供の頃からその『目標』に向かって真摯に努力すれば、それを実現する確率は高いだろう。才能は未知数で、可能性は無限大だ。
しかし四半世紀近い歳月を生きてから抱く夢は、まさしく『夢』だ。なぜならば対立する『現実』が常に『夢』を阻むから。夢を思い描く時、己の内からは自らの才能の限界を諭す声が聞こえ、外からは生活賃だの上司だの家族だのが重くのしかかってくる。それらの『生活』を全く無視して己の夢に邁進出来る人間は少ない(それが出来れば『月と六ペンス』)。そして、『生活』を疎かにしないことは人として正しい生き方だと思う。人は、夢を食べるだけで生きてはいけない。
だからこそ、その現実の『生活』の中で夢に向かって努力をすることが出来る人間は、それだけでその夢に対する才能を持っているのではないかと思えるのだ。現実はいつも人を夢から遠ざけようとする。夢は叶えるよりも諦める方がはるかに容易く、ただ夢を語るだけならば誰にでも出来る。決して諦めない。語る前に努力する。日常の生活の中で、夢のための努力を『続ける』ことが出来るということ。その夢に対して、これ以上の才能は無いのではないだろうか。


結論は『才能とはその殆どを努力が占めている』という常套句に帰結することに気付いてあれ?と思いながら終わり。……あれ?